「元に戻せない改修はできない」
“預かりもの”という意識で京町家を改修する大工、大下尚平さんの話。
京町家まちづくりファンド 助成実績紹介エッセイ vol.07 / 2021-09-28
転載元:ウェブマガジン「雛形」
「何十年に一度」の異常気象を毎年のように目の当たりにしていると、「地球に優しい暮らし」やSDGsといったことが、もう本当に掛け声だけでは間に合わないことをひしひしと感じる。なにか大きなアクションをとることはできなくても、日本の京都でじっと受け継がれてきた「京町家」という住まいのあり方を見直すことは、自身の暮らしを見つめるきっかけになるに違いない。
京町家を形作るのは木、土、紙、石、草といった自然素材が中心で、いってみれば、そのすべてがやがて土へと還るもの。暮らしのスケールでみても、決まったサイズでつくられた畳や建具は入れ替え可能だったり、身近に自然と接するさまざまな工夫がなされていたり。そもそも京町家は、一般には昭和25年(1950年)以前、伝統構法により建築された木造建築物を指すことが多く、平均30年が寿命といわれる日本の住宅事情と照らし合わせれば、時間の物差しが根本的に違う。
それを支えるのは、伝統的な構法からなる京町家の構造と、住まう人たちの日々の暮らしぶり、修繕や改修を施しながら建物を維持してきた職人たちの働きにある。京町家を専門に手がける大工の棟梁、大下尚平さんに、京町家に詰まった知恵とかけがえない日々の仕事ぶりについて話を聞いた。
文:竹内 厚 写真:町田益宏
新たにつくることができない京町家を
改修するということ
大工さんと聞けば、口に釘をくわえて、カンナで木材を削ったりしている寡黙な職人……そんなイメージを持つ人が多いかもしれない。もちろん、それも大工の仕事のひとつ。だけど、それは数ある大工仕事のほんの一部だというのが、大下尚平さんと話す中で気づかされた大きな発見だった。
大下さんは高校卒業後、迷いなく技術専門学校に入学してまっすぐ大工の道を歩んできた。父も大工で、子どもの頃から休みのたびに現場に連れられてきた大下さんは、楽しそうに仕事に励んでいる父の姿を見ることで、憧れしか抱いてなかったという。ただ、専門学校で教わるのは、あくまでも現代的な日本家屋のつくり方。京町家との出会いは学校卒業後のことだった。
改修を施した土間から縁側への上り口に、大下さんがつくった踏み板。ちょっとした造作仕事の丁寧さが気持ちいい。
「卒業後に父といっしょに古い商家の改修へ行くと、学校で習ってきたのとは全然違う家のつくり方だったんです。地面の基礎に土台があって、そこに柱を立てて筋交いがあって…という建物しか学んでこなかったので、基礎の土台もなく、石の上に柱を立てるという京町家の仕組みがまったく理解できなかった。学校でも、差し金の使い方をはじめ、ノコギリやノミ、カンナといった大工道具は扱ってきたし、家を建てるために必要な技術がまったく違うわけではないけども。京都で大工としてやっていく上で京町家についてちゃんと学びたいという気持ちが生まれて、25歳で『京町家棟梁塾』に入り直すことにしました」
「京町家棟梁塾」は、京町家にまつわる伝統技術の継承を目的に2006年からスタート。現役の大工棟梁や職人たちが自ら講師を引き受け、街に後継者を育てるために惜しみなく知識と技術を伝える場となっている。技を囲い込んでいては京町家を残していくことができないという、職人たちのきびしい現実認識さえも伝わるようだ。
大下さんはその塾で70歳を越える現役の大工棟梁と出会い、京町家改修の現場での実習などを通して、京町家について一から十まで叩き込まれたという。
ねじり鉢巻はしないが、耳に鉛筆は大下さんのいつものスタイル。ちなみに落としても折れにくい2Hか3Hを愛用している。
「京町家というのは建築基準法以前の建物のこと。といって、阪神淡路大震災でも倒壊することもありませんでした。法律を基準にするのではなく、大工の知恵と経験が集積された建物が京町家なんですね。瓦の葺き方から、べんがら塗り、柿渋塗り、竹小舞編み、荒壁つけ、畳の採寸方法、格子や建具の割り付け、襖や障子の紙の種類、庭木や石の種類などなど……、棟梁塾では京町家ならではのさまざまな技術を教わりました。実際の現場に出れば、そこは職人さんに任せることもできるけど、自分が理解してないと、職人さんたちに指示を出すことはもちろん、おさまりについて話し合うこともできないですから。大工というのはほんまに総合的な仕事やと思います」
「京町家棟梁塾」の母体となる、京町家に通じた大工、職人、建築家らの職能集団「京町家作事組」のホームページを見れば、「揚げ前」「足固め」「イガミ突き」「板図」「一文字瓦葺き」といった京町家用語集が、あいうえお順に掲載されている。いかに京町家で受け継がれてきた専門技術が多いのか伺い知れる。
しかも、ただ技術を学び、磨くだけでは大工棟梁は務まらないのだと大下さんは言う。
「京町家というのは職住一致の建物として建てられてきました。それを建てはったお施主さん、大家さんは同じ京都でも土地柄による地域色があって、たとえば、祇園や上七軒の京町家はお茶屋さんが多いですし、西陣だと織物業の家が多い。また、旦那衆と呼ばれてきた文化的教養の高い方が今でも多く京町家に暮らしておられますから、その方たちと話をしようと思ったら広い教養が必要です。お茶でもお花でも、最低限の知識を身につけてなければ京町家の大工の棟梁は務まらない。今思えば、京町家棟梁塾で教わったのもそういうことでした」
住まう人と建物をつないでいく、
「出入りの大工」というありかた
今回のインタビューは、大下さんがまさに今、改修を手がけている京都五条の京町家・八田邸を使わせていただいた。玄関扉からまっすぐ奥へと細長い土間が伸び、奥庭まで通じている。これが京町家特有の「通り庭」と呼ばれるスペースで、天窓から光を取り込み風の通り道になる、吹き抜けの気持ちいい空間となっている。
八田邸は、もともと青磁作家・八田蘇谷の住まい兼工房。蘇谷の娘さんが街に開かれた場所にしようと改修を決めた。通り庭はギャラリーショップとして活用される。
八田邸の改修作業では住まい部分を先行して、八田さんはこの夏、現場で働く大下さんの仕事ぶりを見守りながらここで暮らしてきた。
外観の修繕を終えた八田邸。「もともと着色されていない板が張られていたため、今回も無垢のままの板で張り替えました。日焼けすることですぐになじんでくると思います」と、大下さん。
八田蘇谷の茶巾筒を土壁のアクセントにしたのは、設計士さんのアイデア。茶巾筒を半分に割る加工作業は大下さんが手がけたが、心苦しく大変な作業でもあったという。
「どんな風に改修にするかは主に設計士さんと相談しますけど、大下さんにはその打ち合わせから関わっていただいてました。暑い中、大下さんががんばって作業してはるのを見てきたのですが、私も住みはじめるとやっぱり網戸をつけてほしいなとか、後からいろいろ希望が出てくるんです。作業中の大下さんに網戸のことも伝えたら、ちゃちゃっとやってくれはって、木戸の動きが悪いところもすぐに調整してもらいました」と、八田さん。
八田蘇谷の作品を活用して床や壁に埋め込むという案が出れば、その青磁作品の加工を担い、納戸から見つかった提灯立てを照明器具にアレンジするというアイデアが生まれると、その古い照明器具を原型に、同じ形、木の色味まで合わせながら照明器具をいくつも大下さんが制作した。
大工という仕事の領域は本当に幅広い。大雑把な形容をすれば「なんでも屋さん」にも見える。
「出入りの大工ってそういうもんやと思います。たとえば、冬の建具から夏の建具に替えるのを手伝いに行くというのも僕の仕事ですから。『ちょっと雨漏ってるみたいやわ』といったことでも、声かけてもらったらそのお家に駆けつけて、用事を聞くのにあわせて建物全体の状態をチェックしてます。そうやってこまめに出入りすることで、建物の異常にも早めに気づくことができるんです」
伝統的な技術にも通じた職人であり、さまざまな施主や職人たちと話ができるディレクター。そして、住まう人と建物をつなぐ上で欠かせない存在、それが大工なのだとわかってくる。
「いっぺん、復元にこだわって、そこそこ手を入れた京町家で、完成後に『これ、どこ直したかわからんな』って嫌味を言われたことがあります。でも、それがすごくうれしかったんですよ。そんなこともあって古い木、石材や建具を集めて、できるだけどこ直したかわからないようにこだわってがんばってたこともありました。今はそこまで頑なな姿勢ではなく、今ある身近なものを中心に使って、無理なく自然にやるのがいいと思ってます。というのも、当時、京町家は身近にあるもので建てられていましたから。それに、すべてにこだわるとコストが高くついて町家を残していけないので、普段使いと特別使いの使い分けが大切なんです」
もともとは提灯釣りだったパーツを照明器具にアレンジ。原型となった昔の提灯釣りも同じように使われているが、大下さんがすべて似せてつくっているため、教えられなければどれが原型なのかわからない。
京町家に関わる上で譲れない一線
「もとに戻せない改修はできひんかな」
京町家棟梁塾を出た大下さんが、京町家の改修を専門に手がけるようになって約15年。4~5人体制の大下工務店では、大きな京町家の改修はどうしても年2、3件程度しか受けられない。それでも、ささやかな修繕や相談に乗ったりということも含めれば、大下さんはこれまで延べ100件ほどの京町家に携わってきた。
「いろんな京町家の改修に携わっていると、その京町家を建築された棟梁や関わってきた大工さんの考えが見えてくることがあるんです。たとえば、柱の足もとはどうしても腐りやすいので、『根継ぎ』といって足もとだけ新しい部材に取り替えるんやけど、僕の前に根継ぎをした大工さんが独自の加工で根継ぎをしていたことがありました。正面からはなんてことないんやけど、裏から見たらすごい継ぎ手がしてあって。
表面上は見えない裏の部分なので、そこは昔の大工さんの遊び心でもありメッセージだと感じています。それが今の僕たちに送られてきたので、僕も次の世代に送りたい。だから、昔の大工さんと同じやり方で根継ぎをしておきました。50年後にまたその京町家に関わる人がいれば、令和の大工が面白いことやってるなぁって、それをまた真似してやってくれるかもしれないですよね」
設計図や言葉が残されているわけではなくとも、今、その目の前にある京町家の細部ひとつひとつが、何よりも雄弁に建物の歴史と技を伝えているのだと思う。ただし、それを読み取るためには大下さんのような職人たちの目が必要になる。
そうやって一つひとつ個性の違う町家、改修の希望もさまざまある中で、大下さんにはどうしても譲れない一線があるのだそう。
「改修においてはまずは復元が大前提。京町家というのは僕なんかが生まれるよりもっと前、父親が生まれるよりも前からあった建物やから、作業費(手間)よりも材木、材料の方がうんと高かった時代、遊びや余分で入れた柱みたいなものはないと思ってます。せやし、僕が柱を抜くことで、これまで100年保ってきた建物が次の100年保つのかと言われたら、僕はよう答えられない。といって、京町家にお住いの方が快適に暮らしたいという気持ちもよくわかるので、そのあたりは設計士さんとも相談しながら進めます。たとえば、間取りというのも本来はなかなか変えにくいもので、障子や襖といった建具をうまく使って暮らしのなかで調整してきたのが京町家なんです。
まあ、けど、建てられたときの状態に戻すことができない改修というのは僕はできひんかな。大黒柱を切るとか、小黒柱を切るようなこと。大黒柱だとしても入れ替えることもあるし、継いだりすることもあるけど、それにも限度はあるから」
今の一般的な感覚からすれば、家を改修するなら快適さや住み手の好みをいかに反映するかが最優先。それが持ち家となればなおさらだろう。しかし、100年住み継がれてきた建物も少なくない京町家にあっては、自分よりも先に建物のことを考えるのが当たり前なのだと、平然と話される。京町家に関わる人たちのその共通認識にしびれてしまう。
「西陣の京町家に暮らすおばあさんから改修の相談を受けたときに、『私はここに嫁がせてもらって、今預かってるだけやし、息子が戻ってくるまでにちょっと直しときたいんや』って言わはるんです。京町家は自分だけのものじゃない、預かりものやからこそ、次の代につなぐように改修せなあかんし、次の代につながった時に、もとの形が失われてたではいけない。そのための技や知恵を次の世代の大工さんに伝えるのが、僕の仕事やなと思ってます。
ちょうど今年の7月から、自分が行ってた専門学校の非常勤講師として教え始めていて、僕がやってる現場にも若い学生らが興味を持って来てくれました。京町家=文化財みたいに思いこんでる若い子もいて、まさか京町家の工事現場に入れるとは思ってもなかったみたいで。それでも、僕が学校に通ってた時代に比べると、京町家のような古い建物に価値があるという意識を若い世代が自然と抱いてる感じはします。京都全体で町家を保全、再生していこうという流れはできてる気がする。そこは、京都市や京町家まちづくりファンドの活動が実を結んでるんだと思います」
“預かりもの”だという意識。
柱から知る、昔の大工さんの思い
現代に受け継がれてきた京町家をどうやって次の世代へと受け渡していくか。寄付金をベースにして京町家の保全・修繕に助成を行う「京町家まちづくりファンド」のような資金面でのバックアップもあれば、今では大下さんも所属する、京町家再生を手がける職人集団「京町家作事組」の活動も地道に続いている。
それでも京都市では年平均で800件、つまり、1日2軒の京町家が取り壊されている計算になる。
改修の現場で見えていた、古い土壁の内部。「竹小舞」と呼ばれる下地の竹を編みこみ、その上から土を塗っていくことで土壁となる。「今使われてる竹よりも随分と竹が細いなぁ」と大下さん。改修作業は何十年も前の素材や職人の手跡を見る機会ともなる。
「特別扱いで保存されるような状況になってからではもう手遅れやと思います。京町家というのはあくまでも日常的な住まいなんやから、当たり前にあるものとして次の代に伝えていかなければいけないんですよ」
大下さんは、かつて染物工場だった京町家をご縁もあって購入。両親のための住まいと大下工務店の事務所にしようと、仕事の合間を縫って少しずつその改修を進めている。
先述したように京町家は建築基準法以前の建物だから、現在、新築として建てられる京町家というのは、大下さんの目で見ればすべて京町家風でしかない。だけど、本当に新築の京町家は不可能なのか。大下さんは今、この元・染物工場の敷地内に新築の京町家を建てるという新たな目標に向けて動き始めている。
「それらしい建物はできても、建築基準法内でやってる限りは絶対に京町家ではあり得ないんですけど、今は『建築基準法の適用除外』という制度もつくっていただいているので、それを使うことでなんとか現代の京都で、当時と同様の京町家の新築ができないかって、設計士さんとも相談してるところです。
町家を守り、建てられるようにして、京都が京都であり続けること。大工ってつくって見せたるわというのがかっこいいとこやし、みんなが頭で想像してるよりもできたものがええやん、というのがいいでしょ。楽しくやりがいもあって、昔も今もこれからも、“大工さん”ってなんて良い職だなと思います。そこをもっと僕が見せていかなあかんなと思っています」
編集協力:公益財団法人 京都市景観・まちづくりセンター
大下尚平さん
おおした・しょうへい/1980年、京都府京都市生まれ。父親の後を継ぎ、京都で工務店を営み、年間を通して京町家に携る。営まれる職種により様々な特徴がある、平屋、厨子二階から本二階、仕舞屋、長屋、大店と借家、また織屋、花街、銭湯や工場など、営まれる職種により様々な特徴がある京町家をひと括りにすることなく、常に復元を念頭に置き、日々作事に励む。
大下工務店:http://www.oshitakoumuten.com/
(更新日:2021.09.28)
この記事に登場する『八田邸』の空間と文化を次の時代に受け継ぐため、京町家まちづくりファンドが資金面を支援し、外観改修工事を行いました。
こうした京町家を1軒でも多く残していくために、当ファンドは皆さまからのご寄附を募集しています。