令和3年の祇園祭
京町家まちづくりファンド 助成実績紹介エッセイ vol.05 / 2021-11-15
書き手:九龍 ジョー
令和3年度の京町家まちづくりファンド改修助成事業に選定の京町家『郭巨山町会所』と、平成19年度(2007)選定の京町家『八幡山町会所』を、九龍ジョーさんと訪ねました。
九龍ジョーさんは、主にポップカルチャーや、伝統芸能などに関わる原稿執筆を手がけるライターです。編集者としての顔も持ち、これまでに書籍、メディアなどで編集を多数手がけられています。
九龍さんと伺った2つの京町家は、祇園祭の会所として毎年使われており、今日まで地域の人々の手によって守られてきました。1000年を超えて引き継がれてきた技術や文化は、各町内ごとに個性が宿っており、京町家は、それらの継承の一端を担ってきた存在といえます。
そんな京町家と共に祇園祭を見守ってきた郭巨山保存会の平岡昌高さん、八幡山保存会の井上成哉さんを取材し、地域の寄り合い所として京町家を継承していくということについて、お話を伺いました。
「100年ちょっとですかね。京都では、つい昨日みたいな言い方しますねん(笑)」
ここは京都四条通りに面した古い町家。祇園祭の33基ある山鉾の一つ「郭巨山」の町会所。郭巨山保存会の代表理事・平岡昌高さんに話を伺った。
平岡さんは祖父の代から郭巨山の運営に携わるようになった。「おじいさんの世代だと明治時代ですか。けっこう前ですね」と言う私に平岡さんは、「いやいや、最近のことですわ」と返すのだった。
そういえば、とかつて読んだ司馬遼太郎の小説を思い出した。司馬の歴史小説では、時に作者である司馬自身の語りが挿入され、登場人物に話しかけたりもする。あれはなんの作品だっただろうか、本筋とは関りのないある京都の古老との逸話が書かれていた。古老は司馬に「先の戦争」について語る。司馬はそれを太平洋戦争の話だと思って聞くのだが、どうも様子が変であると。よくよく耳を傾けてみれば、古老の言う「先の戦争」とは、「戊辰戦争」を指していたという。
ことほどさように、悠久の地・京都では、時間の流れ方が一味違う。
■ 1000年以上続く祭り
祇園祭のルーツは、平安時代の祇園御霊会に遡る。869年というから、すでに1000年以上の時が経過している。郭巨山はというと、初めて文献に登場するのが応仁の乱後、明応9年(1500年)。ざっと600年前のことになる。明治が「つい昨日」に感じられるのも無理のないスパンだ。
祇園祭の山鉾は、形状によって、大きく「鉾」「山」「曳山」「傘鉾」の4種類に分かれる。郭巨山は「山」だ。中国史話『二十四孝』の一つ「郭巨釜掘り」の故事にちなんで作られた。胴掛を吊るす飾り板である乳隠しと、日覆い障子の屋根がトレードマークである。
郭巨山保存会の公式サイトによれば、「明治21年(1888年)には美術家フェノロサが来町。懸装品を鑑賞調査し大いに賞賛したことを機に、懸装品の修繕と共に、御釜、乳隠し、欄縁、見送金物、屋根金物、角房金物、舁き棒、房類などを新調、足掛け20年を費やし装飾品の充実を図った」とある。
令和の現在、この山鉾を大切に保存、管理し、また、山を建てたり、飾り付けたりする技術を未来へと伝承していくことが目下の一大事だ。
■ いまあるものを新しく
平岡さんに案内されて母屋の裏手に回ると、立派な蔵がある。扉も分厚い。
「開けてみます?」
平岡さんから鉄のカギを受け取る。ロールプレイングゲームでしか見たことがないような大きなカギだ。これまた巨大な錠前に差して回すと、ずしっとした手応えがある。時代劇で、盗賊がこんなふうにして蔵破りをしていたような記憶がうっすら甦る。
蔵の中に細々としたものが整然と並ぶ。2階建てとなっており、梯子を使って上がると、梁に書かれた「昭和五年」という文字が目に入る。平岡さんによれば、昭和の初め、良質な材木が使われていた蔵を、郭巨山の保管場所としてこの町家に移築したらしい、とのこと。
「当時は旦那衆が出し合ったお金がけっこうあったんですね」
毎年、祇園祭の時期になると、郭巨山はこの蔵から取り出され、組み立てられる。この作業を「山建て」という。
基礎部分の組み立ては大工に発注する。その後、町会所の二間を作業スペースにして、細かい部品を飾り付けていく。ここからが平岡さんたち保存会の仕事となる。
平岡さんの話を聞きながら、よく見ると床にマジックでいくつか目印がつけてある。この目印に部品を置くことで、合理的に手際よく山の飾り付けができるのだという。この古い町家で幾度となく、郭巨山は飾り付けられ、建てられてきたのだろう。
「この町家はかつてはもっと広かったんです。でも、四条大通りの拡張工事にともなって、道路に削られてしまったんですわ。よく京町家は間口が狭くて奥行きが深い『うなぎの寝床』と言われますけど、その奥行きが狭くなってしまった」
足りなくなったスペースは表に床几を並べて置くなどして補ってきたが、それも限界があるので、近々、保存会では改修を予定しているそうだ。具体的には、母屋と蔵の間をつなぐ空間を整備するという。
「建て替えて鉄筋5階建てにするなんて計画もあったんです。けど、まあ、いろいろ考えて、いまあるものを生かしつつ、新しくしようとなりました」
改修するならいま、というタイミングでもあったのだろう。2020年、2021年と2年連続で、祇園祭の山鉾巡行は中止となる。むろん、新型コロナウィルスによるパンデミックの影響だ。
祇園祭の起源を振り返れば、そこには疫病退散の祈願も込められていたという。しかし皮肉なことに、最新の疫病ともいえる新型コロナウイルスは、祭においてもっとも重要な要素である「人が集まること」を難しくする。
■ くり返されてきた営み
祇園祭にかぎった話ではないが、数十万人規模の見物客を集める祭りが中止となれば、地域経済への影響も大きいだろう。そして、より深刻なのは、長年培われた技術の伝承が一時、停まってしまうことである。山鉾の建て方、飾り方、さらには蔵へのしまい方。年に一度の機会が、2年連続でなくなるのだ。この損失はいかばかりか。
そのため、祇園祭に携わる町内では、祭りはなくとも山鉾を建てたところも少なくない。「うちも今年は建てました」と言うのは、祇園祭の山鉾の一つ「八幡山」の運営に携わる井上成哉さんだ。
八幡山は江戸の天明年間(1781~1788)の製作といわれるから、こちらもざっと230年以上の歴史がある。山の上にこしらえた総金箔の祠には応神天皇の像が祀られており、鳥居の上にある雌雄一体の鳩は左甚五郎の作とも言われる。
「技術の継承もそうですし、文化財なので干さないといけないですからね」
「八幡山」保存会の町会所までの道すがら、三条通りを歩く。案内をしてくれていた井上さんが、ふと立ち止まった。室町通りとぶつかる交差点だ。もし祇園祭が開催されていれば、メインストリートといっていいぐらいに盛り上がるはずの地点なのだという。
八幡山の町会所もまた、古い町家だった。新しめのマンションや雑居ビルに囲まれて、ひっそりとした平屋が建っているので、そこだけぽっかりと空が見える。まるでなにかに護られているかのようだ。そして郭巨山と同じく、八幡山もまた、山を保管するための立派な蔵を持っているのだった。
近くのやはり風情ある町家の町会所に場所を移して話を聞いていると、井上さんが意外な単語を口にした。
「グッチの話、知ってます?」
あの世界的ファッションブランドのグッチが、100周年を記念し、つい先日まで京都の町家(旧川﨑家住宅)で展示をしたのだという。
「ああいう一流ブランドは、やっぱりどういう空間で自分たちのアイテムが輝くか、よく知っていますよね」
京町家の持つさまざまな魅力は、使う人たちの手によって引き出される。祇園祭のための町会所もまた、山鉾の保管、運営の先に、まだ見ぬ可能性を秘めているのかもしれない。
井上さんによれば、八幡山の運営に、新しいマンションの住人の中から手伝いを申し出てくれるケースもちらほら出てきているという。
「祇園祭はいまでは有名になりましたけど、かつてはそこまで外から見物客が来ていたわけじゃないんです。ここ30年ぐらいですかね、観光客が増えたり、インバウンド需要もあったりして、注目されるようになった。山鉾も世界無形遺産に登録された。でも、どんなに祭が有名になっても、それを普段から支える人たちあってのものですからね」
1000年前とて、きっと同じだろう。輝かしく巡行するすべての山鉾が、誰かの手で建てられ、飾られ、役目を終えると来年まで大切にしまわれる。祇園祭をめぐる途方もない時間の長さは、そのくり返しの証でもある。
【終】
令和3年は、昨年に引き続き新型コロナウイルスが猛威を振るっており、残念ながら、祇園祭の山鉾巡行が2年連続で中止となりました。京都の人々にとっても、これは第二次世界大戦以来という異例の決断です。このような状況下でも、祇園祭の文化と技術の継承が絶たれることがないよう、関係者の方々がご尽力されていました。
今回の記事でご紹介した「町会所」は、祇園祭の各山鉾の保存会が維持・管理する建物で、様々な役割を担っています。お祭の期間は、祭事、山鉾の懸装品の展示や粽(ちまき)の授与のスペースとして使われ、お祭以外の期間は、山鉾・懸装品の保管はもちろんのこと、関係者の方々の寄り合い所、またお囃子の稽古場等として使われることもあります。また、郭巨山や八幡山のように、お町内が受け継いできた町家(ちょういえ)※を活用している町会所もあれば、ビルやマンションの一部を利用しているような町会所もあり、その姿は時代と共に変容しています。
今年、郭巨山町会所では粽の授与が行われました。町会所の改修工事が令和3年10月に着工となり、この時が改修工事前の最後のお祭でした。粽や手ぬぐいをお求めになる方や、保存会の方々と改修工事の内容についてお話される方もおられ、例年の祇園祭期間中の四条通とは全く異なる静かな風景ながらも、その意志はしっかりと伝わってくるものがありました。郭巨山町会所の改修プロジェクトは、今後こちらのページでも随時ご紹介していく予定ですので、ぜひご覧ください。
八幡山町会所は、平成19年度(2007)にファンドの改修助成事業として選定され、外観の改修工事を行いました。普段は住宅として使用されていますが、お祭が始まると、懸装品の展示や山建ての準備のためのスペースとして活用されます。今年は、昨年中止となった山建てが行われ、一昨年から仕舞われたままだった懸装品を町内総出で蔵から取り出し、細工物具や織物も例年どおりに飾られました。
人出も少なく、いつもの賑わいはありませんでしたが、「お町内の結びつきや、地域とお祭のあるべき姿を改めて考えた」との井上さんのお言葉が印象的でした。現代もなお、お町内の町家(ちょういえ)は、町衆の力によって、伝統文化や技術の継承の場となっています。
京町家まちづくりファンドでは、町会所のような地域まちづくりに欠かせない京町家への支援を、これからも充実して行っていきたいと考えています。
※「町家(ちょういえ)」とは、町内会など町全体で所有している1軒の町家(まちや)のことで、町の集会や地蔵盆などに使われています。
この記事に登場する『郭巨山町会所』『八幡山町会所』の空間と文化を次の時代に受け継ぐため、京町家まちづくりファンドが資金面を支援し、外観改修工事を行いました。(郭巨山町会所は現在工事中。2022年竣工予定)
こうした京町家を1軒でも多く残していくために、当ファンドは皆さまからのご寄附を募集しています。