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1.松ヶ崎の歴史
 1)松ヶ崎はどんなところか?
 2)松ヶ崎の変遷について

 3)松ヶ崎の水に関する歴史について

2.松ヶ崎学区の史跡(神社、仏閣)

 1.松ヶ崎の歴史

1)松ヶ崎はどんなところか?

 そもそも京都は三方を山に囲まれ、何本もの川が流れ込んで作られた扇状地の盆地です。だから、どこからでも山並みが見え、四季折々のの景観にはっとさせられます。それに少し歩けばすぐに、清涼な流れに出会う美しい場所なのです。 
高低差があるので、北に行くほど景色が良く水もきれいでした。だから松ヶ崎は平安京が作られた時に奈良の平城京平城京から百件の百姓を呼んで住まわせわせ、皇室向けの米作りをさせたのが松ヶ崎村の始まり、という話があるのです。おそらく御所からの眺めが良く、松の茂った虎の背山とそのハート型に見える田園地帯の麓の村が、京都のお庭のようにみえたことでしょう。多くの和歌や物語に松ヶ崎が登場することからも分かります。「松ヶ崎」の地名も虎の背山の景色から名付けられたものと考えられています。

         たなひかぬ  時こそなけれ秋も又
              松ヶ崎より 見ゆる白雲
                        紀 貫之

 1931年、京都市に編入されて以来下鴨から次第に北の松ヶ崎へと住宅地が広がり、農地が減っていきました。
松ヶ崎ののどかな田園風景がめっきりすくなくなりましたが、周辺に多くの文化施設が造られ、新たな 時代の顔を持ち始めています。また松ヶ崎は、地下鉄烏丸線と京福電気鉄道に挟まれて交通の便の良い所です。
平成23年度からは、保険所を併設した左京区総合庁舎が開設の予定です。


絵 眞野 香

 

妙法送り火


題目踊り

 絵 眞野 香 


2)松ヶ崎の変遷について

 松ヶ崎の資料に松ヶ崎の文字が現れるのは810年、嵯峨天皇が松ヶ崎川でみそぎ祓いをしたとあります。
松ヶ崎の虎の背山ではいくつか埴輪を含む古墳がみつかっていて古くから人が入っていたようです。はっきりとした記録が残るのは平安遷都からです。しかし松ヶ崎は皇室との関係があったようでほかの村に較べると優遇されていたようです。

全村改宗と「題目踊り」「妙法」のはじまり

  1306年、松ヶ崎の天台宗歓喜寺の住職、実眼の夢に白い狐に乗った翁が現れ、「都に行き日輪 の像を拝むよう」伝えます。実眼はすぐに京の町に出かけ、辻説法をしていた僧に出会います。
僧の名は、「日像」であったことからお告げはこの事に違いないと、僧の話を熱心に聞いたといいます。やがて心服した実眼は日蓮宗に改宗し、寺もご本尊を移して日蓮宗妙泉寺と改めます。 村人にも改宗を勧めますが、宗旨替えは大変なことだと拒まれます。そこで日像上人を招いて講話をしてもらったところ、村人全員が改宗を決意するのです。

この時、喜んだ実眼が題目を唱えると、村人達が踊りながらそれに和したそうで、これが日本最古の盆踊り(京都市登録無形民族文化財)の「題目踊り」の始まりと言われています。また、日像上人もこれを記念して虎の背山の西山南面に杖で「妙」の字を書きます。村人がその周り木を切り松明を燃やしたのが「妙」の送り火の始まりと言われています。

「法」の字は、江戸時代に日良上人によって虎の背山の東山に書かれました。「妙法」が当時の書き方とは逆の並びになったのはそのためです。
昭和6年に松ヶ崎村時代の地元民により設立された 「松ヶ崎立正会」によりこれらの伝統文化の保存継承に 努めている。またこれら地域の伝統文化等を守り発展させる為に昭和53年に財団法人を設立郷土文化の振興と 地域社会の発展に取組んでいます。

兵火による消失
松ヶ崎は二百四十年の間に、四度も兵火によって消失します。
一度目は1330年頃、南北朝時代に戦火に焼かれます。「太平記」に記されています。
二度目は1463年、京中の死者数数十万と言われる「寛正の飢饉」の社会不安から始まった土一揆の際、根拠地の一つとして幕府軍に焼かれてしまいます。
三度目は1536年、法華宗の台頭を忌々しく思っていた天台宗の山徒が京都の日蓮宗寺院二十一ヶ寺を襲います(天文法華の乱)比叡山の足元で全村改宗した松ヶ崎村は真っ先に焼き討ちされたそうです。防御や見張りのために虎の背山の一部に砦を作ったそうですが、これも焼け落ちたようです。村人は岩倉に逃げたと記録があります。
四度目は1570年、1571年に織田信長の比叡山焼き討ちの前年、比叡山に拠っていた反織田勢力の浅井、朝倉勢の一部が京都近郊に出没し、火を放った時に焼かれたそうです。


松ヶ崎百人衆
松ヶ崎村はこれほどの戦火、試練に会いながら何度でも見事に復興しています。お題目と共に培われた信仰心の厚さと、全村改宗に見るような村人の一丸となった結束力を感じます。
その結束力の一つが松ヶ崎百人衆です。
皇室との関係が深いと言う言い伝えの一つが松ヶ崎百人衆です。これは桓武天皇の平安遷都の折、奈良、平城京から百姓百軒を松ヶ崎に移住させ田と山林を貸し与えて皇室の為の米作りをさせたというものです。その為、分家は許されず常に百軒の農家が安定して作物を作るということが要求されました。村には今も伝わる様々な厳しい掟や定法が定められていたそうです。その代わり収入は安定し、貧富の差もなく、様々な便宜、優遇があったということです。当時の農家の主人で「碁」や「謡」を知らぬ者が無かったというのですから、ゆったりとした暮らしぶりだったのかもしれませんね。


3)松ヶ崎の「水に関する歴史」について

 昔は愛宕(おたぎ)郡松ヶ崎村という地名でした。都に近いとは言え田畑や草地の広がる田園地帯でしたが、高野川と加茂川に挟まれたこの地域は水不足に悩んできました。いつ頃からか分かりませんが、高野川沿いの井出ケ鼻に井堰を設け、左図に示す様に村の中を通って下手の田畑に水を引き、下鴨に流れる泉川に繋げる用水路を完成させます。いまでは、「泉川」と呼んでいますが川筋を3段階に分けて流量を加減し、北東から南西にかけての自然の傾斜を巧みに利用、最後に泉川にまとめ直して下鴨に流してやるという、実に見事な設計と工事だったと現代の技術者も驚くそうです。この泉川を辿るとちょうど良い距離のトレッキングになります。

松ヶ崎を流れる用水路絵 岩崎 晧 

 1763年、松ヶ崎の虎の背山の北側にある、年中水のある深田をため池にすることを、役所に願い出て許されます。1855年、この池の修理と共に拡張工事をし、水不足から開放されます。これが「宝ヶ池」です。 山向こうの{宝ヶ池}から「岩倉川」に水が流され、井出ヶ鼻井堰の少し上流で「高野川」に合流します。このお陰で、井手ヶ鼻井堰に常に安定した水の供給が可能になったのです。 「宝ヶ池」という名前は、お百姓にとって宝物のような価値のある池という意味とも、池の形が 分銅のようでお金を表しているからだとも、宝暦年間に出来たので宝という文字をとったとも言われています。
※こうした歴史や松ヶ崎に関わる記録は、(財)松ヶ崎立正会が発刊した「松ヶ崎」という文献に詳しく収録されています。(市立図書館にも収蔵されています。)

井出ヶ鼻井堰と水門
水の管理
 現在の松ヶ崎学区を流れる水の管理は松ヶ崎水利組合のもと、水役(20軒程の昔からの農家が当番制で務めている。)によって行われています。
左図は、学区を流れる水の高野川よりの唯一の取り入れ口です(井出ヶ鼻井堰と水門)「子供の楽園」の東側の高野川に位置しますこの水門は洪水調整の為、高野川の水位が高くなると自動閉鎖します。開門作業は手動により流量を調整しながら水役が行っております。近年、水の用途は灌漑用水だけではなく防火用水や生活用水として利用される為、水役の他、松ヶ崎消防分団、おやじの会の協力で、川の清掃活動を 行っております。

「川をきれいに!」 地域の皆様のご協力をお願いします。   



新宮神社(松ヶ崎林山)
祭神:熊(くま)野(の)速(はや)玉(たま)神(のみこと)、伊(い)邪(ざ)那(な)岐(ぎ)命(のみこと)、伊(い)邪(ざ)那(な)美(み)命(のみこと)、猿(さる)田(た)彦(ひこ)神(のみこと)
村社で、松ヶ崎の氏神さんで、もとは「大比叡大明神」と称していたが、徳治元年(1306年)に一村あげて日蓮宗に改宗した時に法華経と日像上人直筆の「曼荼羅」を合祀し、その後、妙泉寺の鎮守社として妙泉寺の僧がお祭りをしました。明治維新の廃仏毀釈神仏分離で妙泉寺から離れて「白髭神社」と号し、明治20年(1887年)に更に「新宮神社」と改称し現在に至っています。
10月23日は例大祭、12月8日はお火焚き祭りが行われます。

白雲稲荷神社(松ヶ崎東山)
祭神:稲荷尊、鬼子母神、牛の宮(昔、境内東南に鎮座)
松ヶ崎の人は、新宮神社を「西の宮さん」、白雲稲荷神社を「東の宮さん」といっています。神社には神主がいないので、東の村人でお守りをしてきました。

岩上神社(松ヶ崎林山)
「日本歴史地名体系・京都市の地名」に「社殿を設けず、天然岩を神石とするところから、その名がつけられた。この地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂るところであり、古くから、清浄の地として知られるが、当社も林山を背景として、古代祭祀の磐座信仰の地であったと推定される。」とあります。
口碑には「昔兵庫の海中に光物あり。某高僧其の光を探り、此の石を得、岩神大明神と号し、此れに祀りしに始まれり」とあります。かっては、漁師、牛馬の神として信仰が篤く、参詣の人が多かったそうです。
12月5日はお火焚祭りが行われます。

七面宮(松ヶ崎林山)
松ヶ崎小学校(旧妙泉寺跡地)のすぐ裏手の山にあり、地元では「しちめんさん」と言って親しまれております。天正4年(1576年)日諦僧正が勧請した七面大天女がお祀りしてあります。お祭り以外の日は、本尊は近くの涌泉寺に安置されてます。境内には日輪の滝、月輪の滝があって、かっては眼病には霊験があるといわれていましたが近年は水が枯れてしまいました。
10月19日は「しちめんさんのおんまつり」、12月19日はお火焚祭りが行われます。

涌泉寺(松ヶ崎堀町)
日蓮宗の寺であります。大正7年(1918年)、妙泉寺は本涌寺と官許をもって合併し涌泉寺と改名し、空寺となっていた本涌寺の地に移り、妙法送り火、題目踊等で知られている由緒ある妙泉寺の歴史は涌泉寺に受け継がれることになりました。妙泉寺の跡地は松ヶ崎小学校の敷地として生まれ変わりました。妙泉寺については、「松ヶ崎の歴史」のサイトを参照。
本涌寺は松ヶ崎檀林といわれ、天正2年(1574年)日生は法華の学問所をこの松ヶ崎に設立、これが日蓮宗の学林の始まりで、ここへ全国各地から学徒が多く集まってきたそうです。承応3年(1654年)の春に女院御所造営の残木を拝領して講堂等を改築しました。今の涌泉寺の本堂がそれであります。明治9年檀林は廃止されました。その後明治29年に宗立第七教区小檀林が此処に設置されたが、明治37年に廃止され空寺となっていました。大正5年から6年にかけて小学校の教室として使用されましたが妙泉寺との合併により本涌寺の称号はなくなりました。

涌泉寺の山門前の山側に松ヶ崎檀林の開祖である教蔵院日生生(しょう)師(し)廟(びょう)があります、地元では「教蔵院さん」と呼んでいます。
8月15・16日は涌泉寺の境内で題目踊、さし踊が行われます。


妙円寺・大黒天(松ヶ崎東町)
日蓮宗の寺であります。元和2年(1616年)立本寺第18代の師、本涌寺能化本覚院日英の隠居場所で、松ヶ崎の東部の人々が檀徒となり、妙円寺と号した。
境内仏堂として大黒堂があって、本尊は勇猛庵主日量の遺仏で伝教大師の作と言われています。松ヶ崎大黒天として名高く、信徒が多く、甲子の日には遠くからもお詣りに来ています。
他に境外仏堂として鬼子母神があります。(本尊は十羅刹女)
昭和44年、不慮の火災により本堂、庫裏、大黒堂等が消失するも、大黒堂の本尊、大黒天は奇跡的に消失をまぬがれました。昭和47年に信徒の浄財で再建され、今の大黒堂が落慶しました。
松ヶ崎大黒縁起には「火中出現火伏守護の大黒さま」として崇拝されているとあります。
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