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1.松ヶ崎の歴史
1)松ヶ崎はどんなところか? たなひかぬ
時こそなけれ秋も又 1931年、京都市に編入されて以来下鴨から次第に北の松ヶ崎へと住宅地が広がり、農地が減っていきました。 |
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絵 眞野 香 |
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2)松ヶ崎の変遷について 松ヶ崎の資料に松ヶ崎の文字が現れるのは810年、嵯峨天皇が松ヶ崎川でみそぎ祓いをしたとあります。 松ヶ崎の虎の背山ではいくつか埴輪を含む古墳がみつかっていて古くから人が入っていたようです。はっきりとした記録が残るのは平安遷都からです。しかし松ヶ崎は皇室との関係があったようでほかの村に較べると優遇されていたようです。 全村改宗と「題目踊り」「妙法」のはじまり
1306年、松ヶ崎の天台宗歓喜寺の住職、実眼の夢に白い狐に乗った翁が現れ、「都に行き日輪
の像を拝むよう」伝えます。実眼はすぐに京の町に出かけ、辻説法をしていた僧に出会います。 「法」の字は、江戸時代に日良上人によって虎の背山の東山に書かれました。「妙法」が当時の書き方とは逆の並びになったのはそのためです。
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兵火による消失 松ヶ崎は二百四十年の間に、四度も兵火によって消失します。 一度目は1330年頃、南北朝時代に戦火に焼かれます。「太平記」に記されています。 二度目は1463年、京中の死者数数十万と言われる「寛正の飢饉」の社会不安から始まった土一揆の際、根拠地の一つとして幕府軍に焼かれてしまいます。 三度目は1536年、法華宗の台頭を忌々しく思っていた天台宗の山徒が京都の日蓮宗寺院二十一ヶ寺を襲います(天文法華の乱)比叡山の足元で全村改宗した松ヶ崎村は真っ先に焼き討ちされたそうです。防御や見張りのために虎の背山の一部に砦を作ったそうですが、これも焼け落ちたようです。村人は岩倉に逃げたと記録があります。 四度目は1570年、1571年に織田信長の比叡山焼き討ちの前年、比叡山に拠っていた反織田勢力の浅井、朝倉勢の一部が京都近郊に出没し、火を放った時に焼かれたそうです。 松ヶ崎百人衆 松ヶ崎村はこれほどの戦火、試練に会いながら何度でも見事に復興しています。お題目と共に培われた信仰心の厚さと、全村改宗に見るような村人の一丸となった結束力を感じます。 その結束力の一つが松ヶ崎百人衆です。 皇室との関係が深いと言う言い伝えの一つが松ヶ崎百人衆です。これは桓武天皇の平安遷都の折、奈良、平城京から百姓百軒を松ヶ崎に移住させ田と山林を貸し与えて皇室の為の米作りをさせたというものです。その為、分家は許されず常に百軒の農家が安定して作物を作るということが要求されました。村には今も伝わる様々な厳しい掟や定法が定められていたそうです。その代わり収入は安定し、貧富の差もなく、様々な便宜、優遇があったということです。当時の農家の主人で「碁」や「謡」を知らぬ者が無かったというのですから、ゆったりとした暮らしぶりだったのかもしれませんね。 |
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3)松ヶ崎の「水に関する歴史」について 昔は愛宕(おたぎ)郡松ヶ崎村という地名でした。都に近いとは言え田畑や草地の広がる田園地帯でしたが、高野川と加茂川に挟まれたこの地域は水不足に悩んできました。いつ頃からか分かりませんが、高野川沿いの井出ケ鼻に井堰を設け、左図に示す様に村の中を通って下手の田畑に水を引き、下鴨に流れる泉川に繋げる用水路を完成させます。いまでは、「泉川」と呼んでいますが川筋を3段階に分けて流量を加減し、北東から南西にかけての自然の傾斜を巧みに利用、最後に泉川にまとめ直して下鴨に流してやるという、実に見事な設計と工事だったと現代の技術者も驚くそうです。この泉川を辿るとちょうど良い距離のトレッキングになります。 |
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松ヶ崎を流れる用水路絵 岩崎 晧 |
1763年、松ヶ崎の虎の背山の北側にある、年中水のある深田をため池にすることを、役所に願い出て許されます。1855年、この池の修理と共に拡張工事をし、水不足から開放されます。これが「宝ヶ池」です。
山向こうの{宝ヶ池}から「岩倉川」に水が流され、井出ヶ鼻井堰の少し上流で「高野川」に合流します。このお陰で、井手ヶ鼻井堰に常に安定した水の供給が可能になったのです。
「宝ヶ池」という名前は、お百姓にとって宝物のような価値のある池という意味とも、池の形が 分銅のようでお金を表しているからだとも、宝暦年間に出来たので宝という文字をとったとも言われています。 ※こうした歴史や松ヶ崎に関わる記録は、(財)松ヶ崎立正会が発刊した「松ヶ崎」という文献に詳しく収録されています。(市立図書館にも収蔵されています。) |
井出ヶ鼻井堰と水門 |
水の管理 現在の松ヶ崎学区を流れる水の管理は松ヶ崎水利組合のもと、水役(20軒程の昔からの農家が当番制で務めている。)によって行われています。 左図は、学区を流れる水の高野川よりの唯一の取り入れ口です(井出ヶ鼻井堰と水門)「子供の楽園」の東側の高野川に位置しますこの水門は洪水調整の為、高野川の水位が高くなると自動閉鎖します。開門作業は手動により流量を調整しながら水役が行っております。近年、水の用途は灌漑用水だけではなく防火用水や生活用水として利用される為、水役の他、松ヶ崎消防分団、おやじの会の協力で、川の清掃活動を 行っております。 「川をきれいに!」 地域の皆様のご協力をお願いします。
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